クロスロード(『祈りのカルテ』『リアルフェイス』『傷跡のメッセージ』アナザーストーリー)

『祈りのカルテ』の諏訪野良太、『リアルフェイス』の朝霧明日香、『傷跡のメッセージ』の水城千早の3人が登場するアナザーストーリーです。『天久鷹央シリーズ』の小鳥遊優や。『螺旋の手術室』の冴木裕也も少しだけ登場します
知念実希人 2026.04.04
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 数台の人工呼吸器のポンプが奏でるシンフォニーが、ICUに響き渡る。ナースステーションで電子カルテの記入をしながら、水城千早は大きなため息をついた。

「なに午前中から色っぽいため息ついているんですか、水城先輩。幸せが逃げていきますよ」

 背後から声がかけられる。見ると、麻酔科のユニフォームの上に白衣を羽織った女性医師が、人懐っこい笑みを浮かべていた。

「なんだ、明日香か」

「なんだってことはないでしょ。可愛い後輩に向かって」

 医学生時代に所属していた空手部の一年後輩で、いまは麻酔科で勤務している朝霧明日香は、少女の面影を残す童顔の頰を膨らませた。トレードマークのポニーテールがわずかに揺れる。

「ごめんごめん。あっ、そうだ明日香。私が執刀した患者さんなんだけど、今日の午後に一般病棟に戻してもいいかな。状態もかなり安定してるからさ」

「ちょっとデータを見せてもらってもいいですか?」

 表情を引き締めた明日香は、マウスを操作してディスプレイに必要な情報を表示させていく。ICUは麻酔科の管理下に置かれている。

 たとえ主治医でも、麻酔科医の了解がなければ、ICUの入退室を決めることはできない。

「術後の経過は良好ですね。抜管後の呼吸状態も問題ないですし、一般病棟に戻っても大丈夫だと思います。午後三時に退室でどうですか。ナースには私から知らせておきます」

「サンキュ。助かる」

 

 この子も成長したなあ。もう一人前の麻酔科医だ。学生時代の記憶を思い出して目を細くしていると、いきなり首を回した明日香が目を覗き込んできた。

「で、話戻しますけど、なにかあったんですか? 相談なら乗りますよ。もしかして、恋の悩みだったりします?」

「違うわよ。あんた、昔から本当に恋バナ好きよね」

「先輩だって人のこと言えないじゃないですか。学生時代、失恋した先輩を何度も慰めてあげたでしょ」

「何度もじゃない! 二、三回よ。……たしか」

「もっと多かった気がするんですけどねぇ。で、今回のお相手はどんな人なんですか? 私の知っている人?」

 近づいてきた明日香の顔を、千早は掌で押し返す。

「だから、そんなのじゃないって言っているでしょ。もっと深刻な問題よ」

「深刻な問題?」

 明日香が小首を傾げたとき、すぐそばで足音がした。

「そうそう、水城にとっては明日から、凄く深刻な問題が発生するんだよね」

 また面倒くさい奴が来た。顔をしかめながら振り向いた千早は、しわの寄った白衣を着た長身の男を睨む。

「ねえ、諏訪野。女子同士の話を盗み聞きするのはどうかと思うんだけど」

 千早の同級生の諏訪野は、その人の良さそうな顔に笑みを貼り付けながら口を開いた。

「え、女子?」

「ぶっ殺すわよ」「ぶっ殺しますよ」

 千早と明日香の声が重なる。諏訪野は恐怖の表情を浮かべると、一歩後ずさった。

「いや、素敵なレディたちが楽しそうにお話ししているから、思わずふらふらと近づいちゃって。ほら、綺麗な花には虫が集まってくるようなもんだよ」

「相変わらず調子いいわね、あんた」

 千早は呆れ声で言う。柔道部に所属していた諏訪野とは、同じ武道系の部活ということもあって、学生時代よく飲み会で顔を合わせていた。その頃から、この人畜無害な外見と、異常なほど高いコミュニケーションスキルで誰ともすぐに打ち解ける男だった。

「で、諏訪野先輩、水城先輩の深刻な問題ってなんですか?」

 明日香が訊ねると、諏訪野はどこか得意げに答えた。

「明日から一年間、水城は人の腹を切り開けなくなるんだ。だから悩んでいるんだよ。なぁ」

「人をシリアルキラーみたいに言わないでくれる?」千早は顔をしかめる。

「え? もしかして水城先輩、外科を辞めちゃうんですか? 小鳥遊先輩みたいに」

 先日、外科を辞め、内科医になる決断をした同僚の名前を出され、千早の気持ちはさらに沈む。しかたがない事情があるとはいえ、学生時代、同じ部活で汗を流し、医者になってからも一人前の外科医を目指して腕を競い合ったライバルが医局を去っていくのはつらかった。

「違う違う。外科医を辞めるわけじゃない」

「ただ、一年間の『お勤め』を果たさないといけないんだよね」

 諏訪野が口を挟んでくる。明日香は「お勤め……? 刑務所……?」と両手で口を覆った。

「さっきから、誤解されるようなことばっかり言わないでよ」

 平手で諏訪野の腰を叩いた千早は、明日香に視線を向ける。

「明日から病理部に出向なのよ」

「ああ、なるほど」 

 明日香は柏手を打つように目の前で手を合わせたあと、「それはご愁傷様です」と深々と頭を下げた。

「やめてよ、神社じゃあるまいし」

 千早は今日何度目かわからないため息をつく。

 千早が所属する純正医大第一外科では、中堅の医局員に一年間、病理部への出向を義務付けていた。外科医とは、悪性腫瘍、つまりは癌と戦う医師だと言っても過言ではない。そして、細胞を顕微鏡で観察し、病変が癌であるか否かを診断するのは病理医の仕事だ。

 そのため、昔から外科と病理は切っても切れない密接な関係を築いてきた。ただ……。

「ただ、いくら病理が重要といっても、一年も出向させるのはやりすぎよね」

 千早がぼやくと、明日香は大きく頷いた。

「なるほど、頭より先に体が動くタイプの水城先輩にとって、大好物の手術を取り上げられて、一日中顕微鏡をのぞいてレポートを書いている病理部に飛ばされるのは、刑務所に行くにも等しい苦行ってことですね」

「……なんか、色々と失礼なこと言われている気がするけど、まあそういうこと」

 いちいち突っ込むのも面倒になり、千早は投げやりに言う。

「それにさ、ただでさえ病理部への出向なんて嫌なのに、さらに気が重くなるようなことになっているのよ」

 昨日、病理部の部長に出向の挨拶に行った際に告げられたことを思い出し、千早は肩を落とす。

「なにがあったんですか?」

 

 心配そうに訊ねてくる明日香に答えようとした瞬間、諏訪野が「ストップ!」と声を上げた。

「なによ、いきなり大きな声出して」

「仕事中じゃ、落ち着いて話もできないじゃない。だからさ、今夜でも三人で飲みにいかないかい? そこで、じっくり相談に乗るよ」

 千早は鼻先を搔きながら考える。たしかに、このむしゃくしゃした気持ちをアルコールで希釈したい気もした。

「オーケー、私はいいわよ。明日香は?」

「私もいいですよ。今日はオンコールに当たってないし」

「それじゃあ、午後七時にいつもの焼き鳥屋に集合ってことで」

 

 楽しげに言う諏訪野を見て、千早は唇の端を上げる。

「まったく、調子いいんだから。こんな綺麗なレディ二人と飲めるなんて役得よね」

 

 諏訪野は不思議そうに目をしばたたかせた。

「え、綺麗なレディ? いや、俺は酒さえ飲めれば相手は別に誰でも……」

 

 千早と明日香の蹴りが、同時に諏訪野のむこう脛に炸裂した。

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