真夜中の襲撃者・なぜ小鳥遊優は外科の道を捨てたのか

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「臓器、出ます」
手術台を挟んで対面に立つ若い外科医が声を上げる。機械出しの看護師が機械台の上に置かれた膿盆を手に取り、差し出してきた。
外科医は腹腔に差し込んでいた両手をゆっくりと慎重に持ち上げていく。ラテックス製の手袋に包まれた両手には、赤い臓器が掴まれていた。脾臓、左の側腹部にある、古くなった赤血球を処理や、大量のリンパ球を貯蔵する機能を持つ臓器。
外科医が取り出した脾臓を膿盆の上に置くのを見て、荒巻一輝はマスクの下で唇を固く結んだ。まるで無造作に破かれた包装のように、その脾臓は上下に大きく裂けていた。
十年ほど救急医をしているが、ここまで激しい脾損傷を見るのは稀だ。
二時間ほど前、ちょうど日付が変わるころ、救急救命部の当直をしていた荒巻に、車にはねられ意識不明の重症を負った患者の搬送依頼が入った。
荒巻が勤めている純正医大付属病院は神谷町にある。深夜に新橋で酔って交通事故にあった会社員が搬送されてくることは少なくない。
救急隊によって運び込まれた患者は、すでに血圧が低下し、ショック状態になっていた。エコーで腹部を確認すると、脾臓が大きく割れていることが分かった。血流の豊富な臓器である脾臓が損傷を受けると、腹腔内への大量の出血が起きる。開腹してそれを止めないと、出血性ショックにより命を落としてしまう状態だった。
急速輸液と輸血で一時的に対処しつつ、外科の当直医に連絡を取って緊急手術を依頼すると、すぐに顔見知りの外科医が救急部におりてきた。まだ五年目の若手だが、手術の腕は確かで、フットワークも軽い男だった。状況を確認した彼はすぐに麻酔科医とオペルームに連絡をし、緊急手術の準備を整えてくれた。
荒巻は助手として、緊急手術に立ち会った。麻酔科医がオペの準備を終えるやいなや、外科医は迷うことなくメスとクーパーで開腹を行い、腹腔に溜まっていた血液を吸引して出血源を確認すると、脾動脈をコッヘル鉗子で挟んで止血を施した。
熟練の外科医にも見劣りしないその腕前に感心しつつ、荒巻は必死に手術をサポートしていった。脾臓の損傷は修復不可能なほど大きかったので、摘出するしかなかった。
脾摘を終えた外科医が、顔を上げて荒巻に視線を向ける。
「お疲れさまでした、荒巻先生。これでとりあえずは大丈夫だと思います」
「ありがとう。君が外科の当直医で助かったよ」
「いえいえ、僕なんてまだまだですよ」
外科医は首をすくめる。
「いやいや、俺は救急医として数えきれないくらい手術に立ち会っているけど、君は外科医として天性の才能を持っているよ。俺が保証する」
「いや、どうも……。あ、そういえば荒巻先生、ご結婚されたんですか?」
照れ隠しのためか、外科医が強引に話題を逸らした。マスクの下で、荒巻の頬が引きつる。
「結婚って、どうして……?」
「いえ、左手の薬指に指輪の跡があったので。手術中って、手元に視線が集中するんで、けっこう気づくんです。たしか、この前までは指輪の跡、ありませんでしたよね」
荒巻はなんと答えるべきか迷う。たしかに、他の病院で勤務する救急医の女性と一ヶ月ほど前に婚約を交わした。ただ、その女性は数年前にこの病院で初期研修を受けていて、指導したこともある。
そしてその時期、荒俣は既婚者だった。
元妻とは三年前に離婚していて、婚約者と交際をはじめたのは一年ほど前のことなので、やましいことは一切ない。ただ、おかしな誤解をされないためにも、婚約のことはごく親しい友人にしか伝えていなかった。指輪も自宅でしかつけていない。
「お相手って、小松先生ですか? 小松秋穂先生」
不意を突かれ、「どうしてそれを!?」と声が裏返ってしまう。
「いえ、半年ぐらい前、荒巻先生と小松先生が銀座で一緒にいるのを目撃していまして。ああ、もちろん他言はしていないので安心して下さい」
「見たのは君だけか? 他に、病院の職員に見られていたりとか?」
荒巻は早口で訊ねる。もし、院内で噂が広がっていたりしたら、面倒なことになりかねない。元妻はいまだに、財産分与などについて定期的に文句を言ってくる。婚約のことを知られたら、どんな行動に出るか分からない。
「ああ、それなら安心して下さい。見たのは僕だけです。その日、いい感じになっているナースとデートして、告白したんですけど、『先生はもの凄く良い人だけど、彼氏って感じじゃないんだよね』とかフラれちゃって……」
外科医の声が沈んでいくのを聞きながら、荒巻は安堵と同情心が同時に湧き上がってくる。
「大丈夫だよ。先生は身長も高いし、顔もなかなかいい。すぐに春が来るさ」
「春真っ盛りの人に言われると、なんかあてつけられている気がしますね……。まあ、冗談は置いといて、あとは僕一人でできますから、荒巻先生は救急部に大丈夫ですよ。縫合して、ICUにうつして当面の指示を出しておきます」
「いや、それは悪いよ。救急部の患者さんだし」
「先生を拘束して、救急部がストップしている方が良くないですよ。ほら、結婚祝いだと思って」
「それじゃあ、お言葉に甘えようかな。お礼に今度、ナースと合コンで開いてやろうか?」
荒巻は肩をすくめると、手袋を取り、羽織っていた滅菌ガウンを脱いだ。
「ぜひお願いしたいけど、小松先生に恨まれそうなんでお気持ちだけもらっておきます。それじゃあ、夜勤、頑張って下さいね」
外科医は血で濡れた手袋をした手を軽く振る。
本当にこいつが当直で助かった。今度、誰か紹介してやらないとな。そんなことを考えながら、荒巻は口を開く。
「あとはよろしくな、小鳥遊先生」
「はい、喜んで」
居酒屋の店員のようなセリフを言いながら、小鳥遊優は目を細めた。
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