小鳥遊優 居酒屋で愚痴る(天久鷹央の日常カルテ)
階段を上って地下街から出た僕、小鳥遊優は羽織っているコートの襟を合わせて体を震わせる。五月だというのに、季節外れの寒波のせいで外は真冬のような寒さだった。
金曜日の午後八時、仕事帰りのサラリーマンでごった返している新橋駅前を目的地に向かっていると、突然「あ、小鳥遊先生」と声を掛けられる。振り返ると、若い女性が小さく手を振っていた。可愛らしい顔には人懐っこい笑みが浮かんでいる。
「あ、えっと……どうも……」
僕は首をすくめる。顔に見覚えはあるのだけど……。
「あれ、もしかして誰だか分かりません?」
彼女は悪戯っぽく言う。
「三浦ですよ。三浦あかね」
「あっ、三浦さん!」
純正医大本院外科病棟の看護師だ。僕がまだ外科医だったころ、よく一緒に働いていた。
「ごめん、ナース服じゃないから分からなかったよ。元気だった?」
「はい、元気ですよ。小鳥遊先生は調子いかがですか? たしか、市中病院に出向中ですよね。やっぱり大変ですか?」
「……ああ、大変だよ」
先日、『蘇る殺人者』の事件解決の打ち上げ(という名の地獄)で鷹央に徹底的に酔い潰された記憶が蘇り、顔が歪んでしまう。
僕とあかねはその場で軽くお互いの近況報告をはじめた。
「あっ、これから病棟の飲み会なんでそろそろ行かないと」
数分後、あかねは腕時計に視線を落とした。
「それじゃあ小鳥遊先生、今度、飲みにでも行きましょうね」
コケティッシュにウインク去っていくあかねの背中に、僕は「ああ、じゃあね」と小さく手を振る。可愛らしい看護師に誘われたことに、一瞬にやけてしまうが、よく考えたら彼女の連絡先を知らないことに気づき、テンションが急降下する。
最近浮いた話がないとはいえ、社交辞令を真に受けてしまうとは……。
肩を落とした僕は、とぼとぼとガード下に向かうと焼き鳥屋の赤暖簾をくぐった煙で満たされた店内を見回すと、奥のテーブル席で親友である諏訪野良太が「小鳥遊、こっちこっち」と手を振っている。その顔がすでに真っ赤だった。
「先にちょっと始めてたよ」
テーブル挟んで向かいの席に腰掛けた僕に、諏訪野は陽気に言った。この諏訪野は医大時代の同級生で、いまは純正医大本院で循環器内科医をしている。先週、久しぶりに飲まないかと連絡が来て、今日ここで待ち合わせしていた。
「ちょっとって、顔真っ赤じゃないか。一人でそんなに飲んでいたのかよ」
「いやいや、一人じゃないよ。もう一人連れてきてるんだ。いまお手洗いに行ってるよ」
「もう一人?」
聞き返すと同時に肩を叩かれる。振り向くと、黒髪をポニーテールにした小柄な女性が微笑んでいた。大学時代、空手部の一学年後輩で、いまは麻酔科講座の大学院生をしている朝霧明日香だった。
「朝霧?」
「どうも小鳥遊先輩。お久しぶりです」
明日香は僕のとなりの席に腰掛けた。