偽世界転生 第3話

頭上からチチチチッという、舌を鳴らすような音が聞こえてくる。顔を上げると、そばにそびえ立っている大樹のはるか高い位置にある枝に、羽を広げたフクロウのようなシルエットが見えた。
しかし、よく見るとそれは明らかにフクロウではなく、そもそも鳥ですらない。巨大なネズミのような生物。羽のように見えていたのは、体の左右についている大きな耳だった。
洞窟を出て急な斜面を駆け寄り、鬱蒼とした森に入ってからすでに二時間ほどは経っている。連なっている樹々が松のように葉の細い針葉樹であり、空に輝いている蒼い月がかなり明るいため、夜の森の中にもかかわらずなんとか見通すことができていた。
ここに来るまで、何種類かの動物に遭遇した。それらは、全て見たことのない生物だった。まだ小動物の身なので、身の危険を感じることはなかったが、油断はできない。この世界の生態系がどのようなものなのか全くわからない以上、いつ巨大な肉食獣に遭遇するとも限らないのだ。
冬眠に入る前、病室で取り憑かれるように読んでいた小説では、異世界転生した主人公は簡単に敵をなぎ倒せるような強大な力を得ているものも少なくなかった。
けれどいまのところ、特別な力を使えるような感覚はない。できることなら人間に、そうでなくても友好的にコミュニケーションが取れる知的種族に会いたい。そうすれば、この世界の構造、生きる術、そして、自分がこの世界に転生した理由などがわかるだろうから。
そこまで考えたところで、思わず苦笑が漏らしてしまう。
何を真剣になっているのだろう。ここが仮想世界であることはほぼ間違いない。だとしたらゲームとして割り切って、だらだらと流れに任せてもっと気軽に楽しんでもいいのかもしれない。
「でも、ゲームは本気でやらないと面白くないよな」
たとえ、これが本当の体でなかったとしても、自由に動き回れることが嬉しかった。洞窟を出てから休むことなく歩き続けているが疲労は感じていなかった。それどころか、体は軽く全身に力がみなぎっている。もしかしたらこの仮想世界には、疲れや痛みなどの負の感覚はプログラムされていないのかもしれない。
そんなことを考えていると、低い唸り声が鼓膜を揺らした。明らかな敵意を持った声。
反射的に声のした方向に視線を向けた瞬間、全身に緊張が走る。木々の隙間を通して、数十メートル先に小山のような巨大な影と、四つの黄色い光が佇んでいるのが見えた。
なんだ? 目を凝らしたとき、大きな咆哮が大気を揺らし、影がこちらに向かって走り出した。その巨体に似合わぬ敏捷性で、木々の隙間をすり抜けながら、地響きと共に影が近づいてくる。
差し込んでくる月光が、その生物まとわりついている影を剥ぎとる。
背筋に冷たい震え体が硬直する。それほどに、迫ってくる獣の姿は恐ろしいものだった。
太い四本の足で地面を駆けるそのフォルムはイノシシに似ていて、大型のSUVほどはあるその巨体はその全身は針金のような毛に覆われている。正面に大きく開いた口の上下に二対、人間の腕ほどの太さがある牙が生えている。鼻はない代わりに、四つの巨大な目がこちらを見ていた。おそらくは暗闇を見通せる能力があるのだろう。四つの瞳は怪しい光を孕みながら迫って来る。
獣と自分の間に障害物がなくなる。再び咆哮を上げると、獣はさらにスピードは上げた。横に飛ぶ余裕すらない。とっさに足に力を入れ、その場でジャンプしてしまう。
自分の身長より体高のある敵を飛び越えられるわけがない。跳ね飛ばされる。
覚悟を決めて目を固く閉じるが、予想した衝撃が来ることはなかった。
何が……? 瞼を上げて息を呑む。地上から三メートル近く離れた位置に自分の体が浮かび上がり、その下を猛スピードで獣が通過していた。地面にふわりと着地し、自分の体を見下ろす。
全く疲労を感じなかったので、この世界では負の感覚はプログラミングされてないと思っていた。けれど、間違っていた。この体は想像より、はるかに高い運動能力と体力を秘めているのだ。
必殺の体当たりを避けられた獣は、十mほど先で急停止すると、猫を思わせる俊敏な動きで振り返り、こちらを睨みつける。怒りのためか、四つの瞳の輝きがさらに強くなり、牙が生えた口が大きく開かれた。しかし、もはや獣からさっきまでの圧倒的な威圧感を覚えることはなかった。
これが仮想世界でのゲームなら、こいつは最初に遭遇するザコ敵だ。恐れる必要なんてない。
重心を落とし、ボクサーのように両手を胸の位置にあげて構える。獣は大きく雄叫びを上げると、再び体当たりを仕掛けてくる。しかし、その直線的な動きは容易に予測できた。鋭い牙の先を向けて迫ってくる獣の突進を闘牛士のようにひらりと躱すと同時に、全力で拳を振る。
大地を踏みしめて発生した力が、腰、肩、腕へと伝わり、上下に並んだ獣の瞳の間に炸裂した。
頭蓋骨が砕ける感触が拳頭に伝わる。獣は眼球を破裂させながら、その巨体のバランスを崩し、突っ込んできた勢いそのままに横倒しになって地面を滑っていった。
倒れた獣は大きく開いた口から血の泡と、断末魔の絶叫をあげながら激しく四本の足をバタつかせていたが、やがてその動きは弱くなり、ついには動かなくなった。
「やった……」
荒い息をつきながら空を仰ぐ。木々の葉の隙間から覗く蒼い月がやけに美しかった。
帝王学の一環として幼い頃から空手や剣道などの武術も習っていた。しかし、本気で拳を敵に打ち込んだのはこれが初めてだった。しびれるような快感が今も拳から脳へと伝わっている。
左手を胸元に当てると、掌に早鐘のような心臓の鼓動が伝わってきた。
生きている! 俺はいま、間違いなく生きている!
本物の世界では希薄になっていた『生』を、この偽物の世界では感じることができる。冬眠から覚めるまで、俺はこの世界で生きていこう。忘れかけていた生きる実感を、この世界で味わおう。
右手を握りしめると、ぬるりとした生温かい感覚が走った。視線を落として唇が歪んでしまう。
右手首から先に、赤黒く粘着質な、血液と脳漿だろう。
「ここまでリアルに再現しなくてもいいだろ……」
思わず愚痴が漏れる。ゲームでリアリティを追求するのは当然だが、これほど不快な感覚をプログラムする必要はないじゃないか。
とりあえず手を洗わないと……。そう思ったとき、遠くからかすかに水音が聞こえてきた。
耳をすまし、音が聞こえてきた方向へ慎重に進んでいく。数分歩くと延々と連なっていた森が途切れ、視界が開ける。眼前に野球スタジアムほどの大きさの湖が広がっていた。その水面は天から注がれる月光を反射し、湖全体が淡い青色に輝いているかのようだった。湖の中心あたりで巨大な魚が跳ねる。魚の頭部にたてがみのように生えている半透明の胸びれが、七色にきらめいた。
コンピューターによって作られた仮想空間、偽物の世界だとしても、ここはとても美しい。
岸に近づき、しゃがみ込んで湖にそっと手を入れる。ひんやりとした感覚が心地よかった。
手についた獣の体液を洗い流していると、再びパチャパチャと水音が聞こえた。
さっきの魚がまた跳ねているんだろうか? しかし、それにしては連続して聞こえすぎている。
顔を上げ、耳を澄ます。その水音は数メートル先の岸にある岩の陰から聞こえてきていた。
また、敵でもいるのだろうか? そうなら、さっきの獣のように倒してしまおう。
この世界がどのようなシステムになっているかまだ把握していないが、一般的なロールプレイングゲームなら敵を倒すことに経験値を得て、能力が上がっていくというのがセオリーだ。
足音を殺して岩陰まで移動し、そっと顔を出す。その瞬間、時間が止まった気がした。
そこにはあまりにも美しく、そして、幻想的な光景が広がっていた。
見目麗しい少女が、一糸まとわぬその身体に蒼い月光を浴びながら、そこに佇んでいた。
4
これまでの出来事が頭の中で再生されては消えていった。
これが人生の最期に見るという記憶の走馬灯というものか? この偽物の世界でも死ぬ時は頭をよんだな……。首元にナイフを突きつけられたままそんな呑気なことを考えていると、額がつきそうなほど顔を近づけているエルフの少女が口を開いた。
「私の名は、レミナ・アスタリミ・ネモス。レミナは『白い月』という意味だ」
「なんで名前を……?」震える唇を開き、かすれ声を絞り出す。
「殺す前には名乗りをあげる。それが獲物の命を奪う際の礼儀だ」
最悪の答えに頬を引き釣らせていると、少女は「お前の名は?」と低い声で例えてくる。
「獲物の名前も、いつも聞いているのか?」
「言語を解するものならな。その名をナイフに刻むことは、戦士としての誉れだ」
何だよ、その蛮族の習慣は? エルフって言うのはもっと高貴な種族じゃないのか?
胸の中で悪態をついていると、レミナは再び「お前の名は?」と尋ねてくる。
「あ、東……」
都規だと答えようとした瞬間、右の頬に衝撃が走り、視界が白く濁る。口の中に鉄の味が広がって初めて、レミナのナイフを持っていない方の手で思いっきり殴りつけらたことに気づく。
「な、何を……?」
口の中に溜まった血液を地面に吐き捨てると、レミナは白い頬を紅潮させた。
「貴様ごときが聖勇アズマの名を語るんじゃない、この痴れ者が!!」
血走った双眸で睨みつけられ、身が竦んでしまう。どうやらこの世界では『アズマ』というのは特別な名のようだ。AZUMAコーポレーションが作った仮想空間だから、そのように設定されているんだろうか? だとしたらあまりにも悪趣味だ。
「もう一度だけ問う。お前の本当の名は何だ?」
レミナは押し殺した声で再度訊ねてくる。ここで再び本名を名乗れば、俺は間違いなく首を掻き切られるだろう。そう確信するほど目の前の少女からは激しい怒りが迸っていた。
さっき殴られたときの衝撃からして、この仮想空間では怪我をするとある程度は痛みを感じるようにプログラムされているようだ。さすがに耐えられないほどの苦痛を浴びることはないだろうが、それでも首を切り裂かれるという経験などしたくはなかった。
どう答えればいい? 偽名を使うべきだろうか? だとしてもなんて偽名を?
焦って熱をはらんでいる頭に、目に涙を溜めながら微笑む義妹の顔がよぎった。
「トキ……。トキ、それが名前だ」
そう、この偽物の世界では俺は『トキ』だ。それこそが俺の名前だ。
彼は自分自身に言い聞かせる。
険しいを浮かべていた少女がふっと相好を崩した。
「トキか。おかしな名前だな。まあいい。承知した」
「よ、よかったよ」
「では、貴様の首をかき切ったあと、私の愛刀にその名を刻むとしよう」
目を細めたレミナは、左手でトキの服の肩口を掴み、手首を返す。てこの原理でレミナの前腕がトキのあごを跳ね上げ、喉元が露わになった。
殺される……! 覚悟を決めかけたとき、黒板を引っ掻くような甲高い不協和音が辺りの空気を震わせた。トキの体に馬取りになっていたレミナが、勢いよく顔を上げて天を仰ぐ。
「ヤマタノプテロ……」
半開きになった桜色の唇の隙間から、かすれ声を漏れた。
「お前、まさかをアペモンス狩ったのか?」レミナはトキに睥睨する。
「アペモンス……?」
「ふざけるのはやめろ! アペモンスだ! アペモンスを殺したのかと聞いているんだ!」
「あ、あの、そのアペモンスっていうのが何かよくわからないけれど、四つの目があって、でかい牙が生えていた動物なら、襲ってきたから殺したけれど……」
炎に炙られた飴細工のように、レミナの顔がぐにゃりと歪む。
あの獣が“アペモンス”だったのか。けれど、ここまで切羽詰まって尋ねてくるということは……
「もしかして、あのアペモンスって生き物、君のペットだったりする?」
おずおずと尋ねると、レミナの眉間に深いシワを刻まれた。
「あんな醜い猛獣を愛玩動物にするわけがないだろう!」
「じゃあ、どうしてあの動物を殺すことが問題なんだ?」
「私もさっきアペモンスを殺したからだ」
「君も殺した? なんで?」
「肉と毛皮を得るために決まっているだろう」
エルフが動物を狩って、その肉を食べるのか。これまでに読んでいた異世界もののファンタジー小説では、エルフは基本的に果物などを好んで食べている描写が多かった。あんな怪物を狩って食用にするとは、やはりこの世界のエルフは思っていたよりも蛮性が高いようだ。
「えっと、ということはアペモンスは君たちの獲物だから、俺が殺してはいけなかったことかな? だとしたら、俺は肉も毛皮もいらないから、君たちが持って帰ってもいいよ」
「違う、そういうことじゃない!」
レミナはいらだたしげに首を振った。
「一晩に二体もアペモンスを狩ったら、森の理に反するんだ!」
意味が分からずトキが「森の理?」と聞き返した瞬間、再びあの不協和音が響き渡り、湖の向こう側、数キロは離れているだろう深い森から黒い影が飛び出した。
天高く駆け上がっていくその影の姿を見て、トキは唖然とする。一見するとそれは巨大な鳥のようだった。しかし、トキの知っている鳥とは明らかに異なった特徴があった。
その生物の胴体からは十本近い、蛇のような頭が伸びていた。
「ヤマタノプテロ……」
強い畏怖のこもった声でレミナはつぶやく。
二つの天を駆け上った後、大きく両翼を開いたその姿をトキは呆然と眺める。
複数の長い首と頭部を持つその姿は、伝説の龍であるヤマタノオロチを彷彿させた。たしか『プテロ』というのはラテン語で翼竜をさす単語だったはずだ。
つまりあのヤマタノプテロという怪物は、空をかける能力を持ったヤマタノオロチの亜種……。
ここが偽物の世界だと理解していても、その姿はあまりにも禍々しく、それでいて神々しかった。腹の奥底から本能的な恐怖が湧き上がってくる。
レミナが「くそっ!」と悪態をつきながら立ち上がり、遥か遠くで翼を大きく羽ばたかせながらホバリングしているヤマタノプテロを仰ぎ見る。
体から離れたせいでトキの目に再び、彫刻のように美しい裸体が視界に映し出された。
「……貴様、また見たな。……後で絶対に償わせてやる」
首だけ振り向いたレミナに氷のように冷たい言葉を浴び、トキは慌てて目をそらす。
レミナはそばに置かれていた服を素早く身につけると、鞘に戻したナイフと、十数本の矢が入った筒を腰帯に引っ掛け、脇に置かれていた大きめのナタのような刃物を無造作にトキに放った。
「これは……?」
「アペモンスを殺せたということは、それなりに腕に覚えがあるんだろう? 協力しろ」
レミナは弓を拾い、矢をつがえる。
「協力って……?」
「いまからヤマタプテロが襲ってくる。おそらく二人とも殺されるだろうが、運が良ければ追い払えるかもしれない」
続く
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